111-2徳永薬師平提瓶・鉄器

 昭和15・6年ころ薬師平に青年学校が建築された時、土盛りがあり多量の須恵器などが出土したが、捨ててしまったと伝えられていた。昭和48年、名古屋大学考古学教室に依頼して遺物整理を行った際、役場に保管されていた記録と、保管者の記憶により現物照合の結果、他遺跡の出土品に紛れていたこの提瓶と鉄器片3点は薬師平出土品の一部であることが判明した。
 提瓶は頸部が長く、胴の表面やや右寄りにヘラの刻文×印がついている。これは窯印と考えられる。口縁部は外側に反らせた唇状の緑をヘラで鋭く整形している。胎土には砂が多く混ぜられ、全体の形もあまりよくないので7世紀中ごろのものである。
 鉄器は断面が二等辺三角形状の破片三片である。直刀と思われその一片が途中で曲がっている。腐食が強く、くわしくは不明であるが、何らかの力が加わり曲がったと考えられる。
 薬師平古墳群は、鈴鏡を保有する6世紀中ごろの古墳を中核としていた。中央政権は東海と北陸を縦断する交通の要路として長良川水系を重視し、在地豪族へ同盟のしるしとして薬師平の主に鏡を与えた。しかし薬師平から7世紀の出土物があるという事は、薬師平が百年以上この地域の中心的役割りを保持し続けていた事をはっきり示しているわけである。



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